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2016年8月

2016年8月31日 (水)

ゴーヤ論議

 8月最後のおしゃべり火曜は、時ならぬゴーヤ論議になった。台風の接近で風もあり、サロン4は涼しかった。庭に植えたゴーヤを収穫してきた仲間がいて、そこから話題が広がった。比叡平でも作る人が増えているが、どうも小さい。10センチほどの丸いのと長いのがあった。やはりゴーヤチャンプルがいい、サラダもいける、テンプラもおいしいと料理法を話す中で、一度も食べたことがないというのが一人いて驚いた。なんでも、夫人がニンニクとかゴーヤとか刺激の強い素材には手を出さないとか。最近でのは沖縄産だけでなく、苦みの少ない宮崎産とか、このような手作りなど多様化している中で、頑固に食べようとしない人もいる。改めて食事の好みは夫人の采配に影響を受けているのだなあと、感心したことだった。

2016年8月30日 (火)

すべての人間の命は尊い

 昨年、パリで新聞社や劇場が襲撃されて多数が殺害された時、フランスのオランド大統領は事実の確認もしないで、間髪を入れずにシリアのIS拠点を空爆した。テロリストの集団は理屈も何もない、すべて殺せという態度だ。最近フィリピンでは多数の麻薬常習者が正式の裁判もなく殺害されているという。麻薬をやるような奴は人間ではないというわけだ。いかにも正当な意見に聞こえるが、実は正義面した人殺しが横行している。一旦そういう風潮が蔓延すると、一般市民は感化されやすい。それが怖い。アメリカでは人殺しを逮捕する気はなく、すぐに射殺している。しかし、世の中には殺してもよい人間は一人もいない。生きる値打ちのない人間は一人もいない。すべての人間の命は尊いということを認識すべきなのだ。

2016年8月29日 (月)

夏の終わりを歩く

 迷走台風のお蔭で気温がぐっと下がった。夏の終わりを迎えた里山を歩く。薄紅のサルスベリがずっと咲き続けている。百日紅の名前があるのは、百日も咲き続けるという意味らしい。長いという意味ではムクゲもしたたかなもので、一日花の変わり身で咲き続ける。ノーゼンカズラは少し毒々しいが、これもしたたかな夏花だ。ヒマワリはなぜ太陽に向かって花を咲かせるのか。向日葵とはうまく命名したものだと、先人の知恵に感心する。少し街中を外れるとクズが満開になっている。大きな丸葉に隠れてよく見えないが、ブドウの房のような赤紫の花がたくさんぶら下がっている。しつこい蔦なのであまり好かれないが、秋の七草のひとつである。これだけが特別早く咲く。空には赤とんぼが群れ飛び、子供たちの夏休みも終わる。季節は確実に進んでいる。

2016年8月28日 (日)

近頃都に流行るもの

 どこへ行ってもが外人観光客という現象には慣れたが、この夏目立つのがユカタ姿だ。祇園祭や送り火の頃は日本人の若者かと思っていたが、よく見るとすべて外国人だった。なんとなく着付けがぎこちないし、背が高いのでうまくまとまっていない。どうも不自然なのだ。どうかと思うがそれでもよく考えると、日本人が通常はまったく着用しなくなった着物を観光客に着せるというのは、面白い商売だ。祇園へ行くニセ舞子がしゃなりしゃなり歩いている。5月に姪の結婚式で高台寺へ行ったとき、日本娘の晴れ姿に外人が群れてカメラを向けていたのを思い出す。彼らは日本文化に親愛の情を示している。安全で親切で清潔な日本を楽しんでいる。おそらく少々値のはる京懐石にも舌鼓を打っているのだろう。めでたしめでたし。

2016年8月27日 (土)

文化祭の課題

 いろいろと年中行事がある中で、秋の最後に行われる文化祭は一番人気がある。本来は市民センターの利用者団体の成果発表が目的で、全市一斉に指定されたものだった。だから体育館を中心とするステージで発表したり展示したりするのがメインだった。ところが時代の変化というのか、テントを張って食べ物屋を出すのがどんどん増えてきた。最近では手持ちのテントを総動員して、屋台店が人気をさらっている。ところが問題は、テントを張ったり撤去したりの作業が特定の役員に集中して悲鳴を上げているのが現状らしい。食品衛生上の届け出など食中毒の管理も重大だ。屋台店の繁盛は、賑わう分テマもヒマもかかる。出店者が各自で責任を持って準備から片付けまできちんとやれていない。住民の高齢化と積極的にやる人が限られているというのが問題点だろう。

2016年8月26日 (金)

四文字熟語

 ナンパラなどのクイズ本で四文字熟語を楽しんできた。お蔭で星印4つでも簡単に解けるようになった。今は「国語の時間」という勉強会でテストを楽しんでいる。大学入試問題を取り上げているが、これがやたらにむずかしい。広辞苑で調べた800種類の中にも入ってない難解なものが出てくる。いったいこんな難しい熟語を憶える必要があるのか。たとえば鼓腹撃壌、股肱相食というのが出てくる。こういうのばかり集中的に教え込めば回答は容易なのだろうが、まったく意味がない。覚えなくても人生に何のマイナスもないことだ。重箱の隅をつつくやり方だ。勉強会としてはそういう問題を話題にして、いろいろ話し合ったのが面白かった。国語についてしか知らないが、大学入試については改革が必要なのではないか。少子化の中では入試を簡単にして入学後しっかり鍛える方がいい。

2016年8月25日 (木)

自主規制

 先ごろ101歳で亡くなったむのたけじは、生涯反戦を訴え続けた。元朝日新聞記者であった彼は、拡大する戦争を阻止できなかった責任を感じて会社を辞職し、ミニコミ誌『たいまつ』によって主張を続けた。彼が訴えた基本的な考え方は、お上の方針を忖度してお先棒を担ぐなということであった。空気を先に読んで自らの主張を規制するような真似をするなということだった。いつの世にも空気を読むのがうまいのがいて、頼まれもしないのに自主規制している。今の世の中もまったくその通りで、新聞もテレビも感じた通りの問題点を主張しなくなっている。一般の視聴者・読者が正当な判断をする手段を提供していない。御用新聞・御用テレビに成り下がっている。ものを考えなくなった大衆ほど操作しやすいものはないのだ。

2016年8月24日 (水)

あるがままがいい

 そんなにいい子でなくていいからそのままでいいからおまえのままがいいから

 これは短歌である。一言の説明もいらない、書かれたとおりのことである。今の世の中こんな風に言う母親がいるだろうか。平成10年に歌人の小島ゆかりが母親の立場から母親の歌として詠んだ。現実の母親はこうは言わないだろう。なぜもっと勉強しないのだの、部屋をきちんと片付けなさいのと、うるさいったらありゃしない。この歌のようにあるがままの子供を許してやったら、いじめなんてなくなるのではないか。昔は貧しく子だくさんだったから、親はほったらかしだった。子供は勝手に育つものとして干渉しなかった。叱るのは世の中のことがわかっていない三つ子まででいい。

2016年8月23日 (火)

日記を書くことの意味

 忘却とは忘れ去ることなり。忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ。

 この、意味のない繰り返し言葉は、その昔「君の名は」の中で作者の菊田一夫が使った有名なフレーズである。91歳になった言葉の先生、外山滋比古さんが元気である。先生、長年にわたって日記をつけている。それは今日あったことをすべて忘れ去って、翌朝起きたときに空っぽの頭でいるためであるという。頭の中が空っぽであると、どんどん新鮮な情報が入って来る。昨日のことが残っていると、いろいろと引きずって前へ進めない。人間は絶えず新しい情報を得ながら新陳代謝を続けるものである。90を超えてまだ本が書ける、耳もよく聞こえるという。このエネルギーはこんな工夫から生まれている。本を読み、日記をつけ、仲間としゃべる。この繰り返しで頭を活性化しよう。

2016年8月22日 (月)

阪神が巨人に勝った

 これはニュースになる。珍しいことはニュースになる。とにかくいつ勝ったかわからないぐらいに、負け続けている巨人に勝ったのだから凄い。岩貞と高木の投げ合いで0行進が続いた。それがとうとう一発を浴びて、やっぱり今日も敗けかと諦めかけた。それが最後の9回に、なんと二軍から帰ったばかりの上本がホームランで返して同点にした。延長10回には北条が会心のタイムリーであっさり勝ってしまったというわけだ。このところ金本野球の超改革も道半ばで、先発が途中で崩れることが多かった。チャンスで打てない打撃陣であり、タイムリーエラーも多い。原口は簡単に盗塁を許すなど、いいところがなかった。それだけにこの一勝は大きい。23日からは甲子園へ戻ってのDena戦。これは相性がいいのだから、大いに稼いで溜飲をさげてもらいたい。

(後日訂正:甲子園でなくここまで横浜球場でした。)